日本磁器誕生・有田焼 創業400年、数々の名陶を生み出し伝統を積み上げてきた有田焼の歴史をご紹介します。

有田焼の歴史

有田焼の歴史
有田焼の歴史

有田焼の歴史

1616年(元和2年)朝鮮人陶工・李参平らによって泉山で磁器の原料である陶石が発見され、日本で初めて磁器が焼かれました。

以来、急速に磁器生産が本格化しましたが、燃料用薪の乱伐がおこったため、1637年(寛永14年)に佐賀鍋島藩は、山林保護の目的で多くの陶工を廃業させて、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、窯場を有田の13箇所に限定しました。

こうして有田の谷あいに「有田千軒」と呼ばれる町並みが形成され、繁栄を極めました。

この町並みには、現在も歴史的価値の高い建物が数多く残っており、1991年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
香蘭社有田本店も「重要伝統的建造物」に指定されています。


有田焼の歴史
有田焼の歴史
有田焼の歴史

有田には皿山代官所が設置され、課税や陶磁器生産について管理していました。
皿山代官所には、代官―郡目付[ぐんめつけ]―取納役[しゅのうやく]―下目附[しためつけ]―下役[したやく]などの役人がいて、さらに山の責任者である内山[うちやま]・外山[そとやま]庄屋や陶石採掘の責任者である土庄屋を支配下に置いていました。

また、生産現場には
【陶石採掘】土坑持ち[つちあなもち]―土伐り子[つちきりこ]
【陶磁器製作】釜(窯)焼き―細工人[さいくにん]・絵書き・荒使子[あらしこ]
という上下関係が成立していました。

陶石の採掘

採掘場には土場番所が設置されるとともに、陶石採掘の責任者として土庄屋が任命され、陶石の採掘現場には採掘坑の所有者である土坑持ちがいて、採掘人の土伐り子を雇用して採掘していました。また、陶石の運搬は土荷人が行っていました。
土伐り子、土荷人にはそれぞれ土伐り札、土荷札が皿山代官より交付されていました。

陶磁器の生産

有田焼の歴史
釜焼名代札
細工札・絵書札・水碓通札・底取札

陶石の購入から陶磁器の生産に至る一連の過程を担っていたのが、釜焼き(当時の窯は「釜」の字を当てている)でした。この事業主は水碓[みずうす](水を利用して陶石を粉末にする臼)を所有し、細工人(器の成形をする職人)、絵書き、荒使子(雑役夫)などを雇い陶磁器を生産していまた。
釜焼き、細工人、絵書きにも、それぞれ釜焼名代札、細工札・絵書札・水碓通札・底取札が皿山代官より交付されていました。
現在は釜焼きのことを一般的には窯元と表現することが多いが、業者間では窯焼きで通用します。

釜焼名代札[かまやきなだいふだ](表)

元治[がんじ]元年 子五月

交付日。元治元年は「ねずみ年」の1864年。

本幸平山 栄左衛門

交付を受けた者の住所氏名。
「山」は「登り窯がある所」を指します。

釜焼名代札[かまやきなだいふだ](裏)

要約

「窯焼きとして確かに(釜焼名代札を)交付しました。諸札の運上銀(許可を受けた者が支払う税金)を定めた通りに毎月きっちり納めること。ただし、水碓通札 については運上銀を免除する。」
「親子兄弟たりとも、(釜焼名代札を)貸与したり、共有したりすることは堅く禁ずる。破損したり、紛失した場合は罰金を納めなければならない。」
「(窯焼の中で)札を持っていないものがいれば、同業者が(皿山会所[さらやまかいしょ]に)通知すること。」
※「皿山会所」…代官所の中にあり、税の徴収などを行っていました。

水碓通札[みずうすつうさつ]

唐臼小屋で精製した焼き物の原料を、窯焼の工房まで運ぶ時の許可証。
この通札のみ運上銀が免除されていました。

底取札[そことりふだ]

「ろくろ」や「型打ち」等の成形作業の際の削りかすの余った土を、再利用するために取ってもよいという許可証。

細工札[さいくふだ]

「ろくろ細工」や「型打ち」等の成形作業の許可証。

絵書札[えかきふだ]

「染付」の絵付作業の許可証。
「上絵付」の許可証は、これとは別に、「赤絵屋名代札」というものがあったと言われていますが、未だに発見されていません。

※ 釜焼名代札、細工札・絵書札・水碓通札・底取札は窯焼き一軒につき5枚セットで交付されました。

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